響け! 心に!!

なんで「響いたのか?」をしちめんどくさく考えてみる、メンドウな人の考察。アニメ中心考察予定です。

劇場版 響け!ユーフォ感想考察 届けたいメロディ~あすかの処世術~

 

  • この記事は、作品の具体的な内容に、深く、大きく関わります。

  「バレは困る!」という方は、残念ですが視聴後にご足労いただければ幸いです。

 

  • セリフはすべて聞き起こしです。

   間違いもあるかと思われますが、ご容赦ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・低音パートの練習教室

 

翌日、みんなの心配をよそに、あっさり部活にあらわれるあすか。

学校を休んだのに、部活にはあらわれる。

なんだか普通ではない、不自然な流れ。

 

駆け寄る低音パート部員たち。

 

「大丈夫。

みんなに迷惑かけるようなことはしないから」

 

あくまでも「辞めない」、「続ける」、とは断言しないあすか。

 

「この話はおしまい。

 練習するよ」

「夏紀!」

「あとでちょっと、話があるんだ」

「はい?」

 

 

 

・渡り廊下

 

「だ・か・ら、大丈夫だって

 そんなに心配しなくても」

「本当に?」

 ホ・ン・ト・にっ」

 

おどけて手すりに乗り上げる。

手すりに乗り上げても、ここからは逃げられない。

空には届かず、その先の床もない。

 

「もう、みんないちいちうるさい。

 そんな大事じゃないって」

「嘘。

 今日もあすかのお母さんから学校に電話あったって。

 教頭先生と滝先生が話してた」

「そっかぁ」

「実際どうなの?」

「もし相談に乗れることがあったら協力――」

「――大丈夫。

 みんなに迷惑はかけないから。

 それで十分でしょ」

 

香織と晴香に心配されるあすか。

協力の申し出は、即座に、明確に、拒絶するあすか。

 

「大事なのは演奏がどうなるか。

 それだけなんだから」

「それだけって」

「それだけだよ、部活なんだから。

 だから、これ以上ごちゃごちゃ言わないで。

 プリーズ ビー クワイエット」

 

最後におどけ、微笑む。

 

さらに、「いつも通りおどけて終わり」ではなく、今回はしっかりと扉を閉ざして去ります。

晴香と香織を、渡り廊下に置き去りにして、明確な線を引きます。

 

あすかは自分の手で、つながる道を閉ざしました。

 

 

 

心配され、鬱陶しくなって逆切れする。

そうしたシーンは漫画やドラマだけでなく、私たちの日常でもよくあります。

反抗期などは、その最たる例でしょう。

しかし、あすかはそうしません。

 

過度に感情的にならないように、精一杯つよがります。

 

「だ・か・ら」、「ホ・ン・ト・にっ」と、声を荒げる代わりに区切りながら話します。

2人の心配から逃げ回るように、距離をとったり、手すりに登ったり、ついには扉を閉め……

 

会話のあいだ、立ち位置が動かない晴香と香織に対し、居心地の悪さをあらわすかのように1人動くあすか。

扉から立ち去る前には、2人の間を、抑え込んだ怒りやいら立ちを、あくまでもささやかにあらわすように、押し退け、割って、通り抜けました。

 

あすかは決して、母親が職員室で見せたように、声を荒げて衝突したりはしません。

 

職員室での母親の様子と比べると、あすかの対応はあきらかに異なります。

母親もあすかも自分の主張があり、2人とも相手の意見は受け入れないことはおなじです。

 

母親は滝や教頭の反対にあいました。

副部長で頑張ってくれているとあすかを褒められても、曲げません。

「田中さんが望まない以上、その届けは受け取りません」と言われたら、『じゃあ言わせてやる』です。

挙句にあすかが拒否すれば、実力行使……

 

一方のあすかはどうでしょうか?

心配を「大丈夫」、「大事じゃない」と拒み、「実際どうなの?」に説明もしません。

晴香の「協力」には即座に反応し、「迷惑はかけない」、と返します。

さらに、「大事なのは演奏がどうなるか」と、論点を自分から部活全体へとズラし、打ち切ってしまう。

 

頑なに自分を曲げず、相手を受け入れようとしないことは、やはりおなじです。

しかし、母親の場合は職員室の騒ぎのように大事になります。

 

騒ぎのあとの、あすかの冷静で慣れた対応。

おなじようなことが何度もあったなら、大人たちがどんな反応を母親にむけるのか、嫌でもわかります。

そしてその傍ら、居心地悪くたたずむだけで何もできない子供のあすかに、大人たちがいったいどんな視線を向けるのかも。

 

母親と一緒になって絡んでくるクソガキなら、相手も敵意を向けるでしょう。

しかし、あすかはそういうタイプではないのです。

母親について、冷静に判断しています。

まだまだ先のシーンではありますが、明確に示されます。

それは、いささか酷薄なほどに……

 

・あのひと、ちょっとおかしいから

・束縛が強くて、すぐヒステリックになる

・一生外せない『枷』

 

こうしたことからわかるように、あきらかに距離を置いています。

興奮している母親の隣。

居心地の悪そうな子供がいれば、母親が突っ掛けていったその相手は、子供のあすかに……

 

同情や憐れみのような、なんとも複雑な視線を投げかけることでしょう。

あるいは滝先生のしたように、あすかを支え、尊重する言動をとる人だって、当然これまでにだって存在していたと思います。

しかしそれは、あすか本人の立場であれば……

逃げ出したくて、恥ずかしくて、消えてしまいたいようなことかもしれません。

 

そんな結末が繰り返され、それが嫌ならもう、別の方法をとるよりありません。

母親とは違うやり方、違う道……

 

それを反面教師として、学んだことでしょう。

 

母親のように正面から感情的に爆発してぶつかることを避けるために、いまの方法が生まれました。

それはつまり、意図を誤魔化す、あるいは曖昧にするというやり方です。

 

カモン! ジョイナス!

プリーズ ビー クワイエット。

こんなふうに英語で言ってみたり、大げさなしぐさや動きを合わせてみたり……

見学のときのキス顔のように、ふざけた印象を持たせる。

部長のような責任があり、最終決断を下すという矢面に立つ場面は避ける。

(目標決めは多数決ですので、表立った責任はありません。念のため記します。)

香織と麗奈、どちらがソロにふさわしいかは答えない。

(しかしこの場面は、まるで謎かけのような本心でズラして答えてはいます)

 

母親とおなじように、あすかもまた、独りよがりと言えます。

 

「この子は私がここまで1人で育ててきたんです。

 誰の手も借りずに、1人で。

 だから娘の将来は、私が決めます」

 

そう宣言する母親は、誰の救いの手も近づけようとしなかったのでしょう。

安心で、強力な保護という良い面も、もちろんあったはずです。

そしてそれは同時に、あすかにとって孤独な道を強いたことにもつながります。

あすかは高校3年生です。

小学生ではありません。

そんな娘の先生に、「娘の将来は、私が決めます」という母親と、ずっと小さな頃から1人きりで向かい合ってきたわけです。

 

やはり田中あすかのスタイルとは、母親と違う生き方を目指した結果なのではないかと思います。